寂しさに寄り添う、美しい詩の世界

私は詩を読むのが好きで特に日本の明治~昭和中期の詩が好きです。

周りに詩が好きな人があまりいないのと、詩を通して誰かと意見交換したり、普段誰かと詩の話をすることは全然ありません。

自分の解釈や感覚を自分がわかっていればOK、全く内向的で外からの刺激や情報を拒絶して対自分のための趣味です。なのでもし誰かと語ったら「それおかしくないですか?」という解釈をしているかもしれませんが、それはそれで良いかなと思います。

読むと脳がじんわり気持ちよくなり、目に映る世界の色彩を豊かにし、世界線が違う空間に行ける、詩は学問や教養ではなくお酒や気が楽になる薬に近い存在です。

詩を好きになったキッカケは教科書掲載作品

初めて詩に興味を持ったのは小学生のときの授業で読んだ、まどみちお先生の「おさるがふねをかきました」という教科書に掲載されていた作品です。

小説とは全く違うリズミカルな表現方法はそれまで詩というものに触れた事がなかったのでとても新鮮でした。

早速家に帰って父親の本棚に並ぶ詩集を順に読みました。様々なバックグラウンドの詩人が生み出す作品は、色鮮やかでありそれと同時に無色透明のような、洪水のように音が溢れているようですべての音を吸収して無音になったような、例え難い不思議な世界へ小学生の私を連れて行ってくれました。

金子みすゞ先生の想像力の深さ、高村光太郎先生の体温を感じる文、茨木のり子先生の力強さと優しさ、中原中也の透明感と擬音の面白さ、宮沢賢治の透き通るような奇妙さ…
この時読んでイマイチピンとこなかった寺山修司先生や吉本隆明先生の詩は、高校生になってハマったので年齢によって好きな詩の範囲が広がるのも面白かったです。

萩原朔太郎の重力のない世界

決定的に詩にハマるキッカケとなったのが萩原朔太郎先生の「月に吠える」に掲載された「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」でした。

朔太郎先生の詩を通してこんな美しい文章を生み出せる人がこの世にいるのかと、ネガティブで薄暗く見える詩が人の心に潜む闇や精神的な弱さに寄り添い肯定するような感覚は本当に衝撃的でした。

大げさな表現ではなく、先生の詩を読めただけでも生まれてきて良かったと思えるほど人生に影響を与えてくれた詩人です。

それまで「詩ってなんだろう?」と手探りに、意味を考えながら読んでいた詩集をもっと体感的に読めるようになりました。非常に抽象的な表現ですが、この言葉に出来ない感情や感覚を呼び起こし、感性そのものに訴えてくるのがではないかと私は思います。

ドロドロしたなかにある純粋さ、美しさの下に潜む醜さ、厭世と臆病の中にあるやさしさ、虚無感のなかを漂う激情、不安定さを楽しんでいるような余裕、そして詩全体を包み込むような寂しさ…

相反する感情や感覚が調和を生み出し、現実世界に蔓延する様々な柵が消え去った重力のない世界にいるような感覚になりました。

朔太郎先生の詩を読む時、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの格言を思い出します。

相反するものは一致する。不調和なものが最も美しい調和を作る。

またそれまでの定型詩をではなく口語自由詩という新しいスタイルを確立した朔太郎先生の挑戦心や反骨精神は大きな指標となり、今でも仕事などでどうするか迷ったとき脳のなかで先生の詩を暗唱して考える事が多々あります。

みんな違ってみんないい、同調圧力と詩

詩を通して最も衝撃的だったことが「人の事を好きじゃなくてもそれで良い」ということです。

私が小学校低学年だった頃はインターネットもまだポピュラーではなかったので、自分の世界は学校のなかの常識に依存しているものでした。「人と仲良くしましょう、友達をたくさんつくりましょう」という空気のなかにいた子供が、初めて厭世的な思想に触れた瞬間でした。

ゆとり教育が導入される前、最も尊重されていたことは「空気を読み、個ではなく和を尊重する、他人に迷惑をかけない」という事でした。(これがゆとり教育後の学校の雰囲気は「個性こそ宝だ~!オンリーワンこそ正義だ~!」となったんだから、世の中はわからないものです…)

ですが詩を通して同調圧力というものが軽減された気がします。それこそ「みんな違ってみんないい」です。人を好きでもいいし、でも嫌いでもいいよ、という一方をサゲての肯定ではなく、どういう在り方であってもそれでいい、と肯定を詩は教えてくれました。

前述した通り同調圧力への抵抗によって軋轢が生じたときに、詩は読んだ人の心に寄り添ってくれます。また自分と他人は全く別なんだと意識が出来るようになってから、他人に期待しなくなったのでイライラしたり否定的になることが少なくなりました。他人の生活や考えに干渉する事は無駄なのだとある意味で諦めがつきました。

それで全てが解決するわけではないですし、人とぶつかりあい一緒に何か成し遂げる事から得れる素晴らしい感情があるのも事実です。

しかし「こうあるべきだ」が多い世の中で詩がもつ普遍的なアナキズムによって少しばかり人生が生きやすくなった人も少なからず存在していると思います。

百年以上前に書かれた文が令和の今も誰かの心の支えになったり生き方に影響を与えていると考えたら、本当に素晴らしい事です。

詩を読む理由はないけど、読まない理由もない

「どうして詩が読むのか?」と聞かれた事が何度かありますが、これに対する答えは未だにわかりません。もしかしたら詩を読む理由が自分のなかに具体的に存在していない可能性があるのではと疑っています。

詩を読むことで得れるプラス面は個人差はあれどあります。でも詩に興味がなくても生活に支障がでたり、何かが劣っているということも損することもないです。実際に今までの人生で詩を読まなかったばかりに悲惨な目にあった、という人には会ったことがありません。

世の中にはどうでもいい、意味がないと思われている事が多々あります。詩は意味がない、意味不明なものと思う人が多い趣味の一つです。そして意味がない事には価値がないと考える人も一定数います。ほかにもたくさんの魅力的なコンテンツがある世の中であえて詩を選ぶ理由はあまりないと思います。

でもたった一篇の詩が人生やライフスタイルに大きく影響を与える可能性もあります。何歳になっても誰かの作品によって感動できるのは楽しい事です。そして多くの詩人の生き方と作品は今でも大きく自分に影響を与えています。

そういう詩にまた出会えたら良いなと一時帰国の時は書店で詩集をあさり、今後も詩を読んでいこうと思います。