【映画感想】信仰と多様性「ホテルムンバイ」

この記事には映画「ホテルムンバイ」のネタバレが含まれます。写真はすべてイメージ画像で作中のものではありません。

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今更ながら観ました「ホテルムンバイ(原題:Hotel Mumbai)

この映画を観て一番に思い出したのがテリー・ジョージ監督作品「ホテル・ルワンダ」、ベン・アフレック監督作品「アルゴ」…両映画ともいつも通りの日常が異なる宗教や思想の軋轢によって崩壊しその中で勇敢に立ち向かった人々を描いた作品です。

あらすじ

『ホテル・ムンバイ』(原題:Hotel Mumbai)は、2018年制作のオーストラリア・インド・アメリカ合衆国のスリラー映画。2008年に起きたムンバイ同時多発テロの際、タージマハル・ホテルに閉じ込められ、人質となった500人以上の宿泊客と、プロとしての誇りをかけて彼らを救おうとしたホテルマンたちの姿を描く。R15+指定。

-出典元:ホテル・ムンバイ – Wikipedia.

美談だけで終わらせない!実話を元にしたリアリティ溢れる構成

すごく申し訳ないのですが、最初バックパッカーのアメリカ人エディとブリーと、同じくアメリカ人のデヴィッドとザーラ(+ナニーのサリーとキャメロン)が登場したときに、きっとエディとデヴィッドが活躍して少年たちをボコボコにして…という、ハリウッド的な展開になるだろうと思っていました。

なのでエディが窓から飛び降りて骨折しながら救助されるシーンを観たときは「え!?ここで退場?」とびっくりしました。

この映画にはジェームズ・ボンドやジェイソン・ボーンのような特異な身体能力をもった人達や、アベンジャーズに登場するようなヒーローたちもいない、本当に一般の人々が闘った様子と何の罪もない人々の悲劇が淡々と克明に描かれていました。

人間の持つ美しさや主要な登場人物が助かる美談ではなく、劇中に観客へ色々な問いかけをしてくるような、終わった事ではなく一人ひとりが考えていかなければいけないテーマがたくさん仕掛けてあります。

監督が圧倒的な調査のもとリアリティを追求して構成したのをヒシヒシと感じ、決め台詞や無駄な会話、かっこよすぎる構図がないのがすごく臨場感がありました、だから本当に怖かった!

残るのも、去るのも決断。リーダーと部下の信頼関係

襲撃をうけてホテルに併設されたレストランのオベロイ料理長はスタッフを集めてここに残って戦うか、ここで去るかを問いかけます。

従業員の何人かは謝りながら逃げていき、オベロイ料理長は「謝らなくていい、恥ずべき事ではないよ」と彼らを送り出します。残るのも決断だし、去るのも決断!

それぞれの家庭やバックグラウンドもありますし単純に怖いし、この状況で去るのを誰が責められるか…!とも思うのですが、同時に「従業員が去った」というのが事態が収束したあとどのように報道されたのか気になります。

人によっては無責任だ!と思うかもしれないので、そういう理不尽な叩きが行われていなければ良いのですが…これがもし日本だったら従業員めちゃくちゃ叩かれるんだろうな、と思うと憂鬱になりました。だからこそオベロイ料理長の「強制はしない」という一言は非常に印象的でした。

そして残った従業員の勇気とホテルマンとしてのプロ意識、指揮するオベロイ料理長のリーダーとしての才能が多くのお客を救ったのは本当にすごい事です。従業員たちが料理長を信頼し、料理長もお客はもちろん部下も守り抜く責任感をもっていたからこそ実現できた事です。

緊迫したシーンが続いていましたが「この人のためなら」と思えるようなリーダーの下で働けるのある意味で幸せな事だなあ…と思いました。

ナニーのサリーは架空の人物だと思うのですが、あの状況でいつ泣くかわからない人の赤子をずっと連れて絶対に見捨てなかったのもプロだなと思いました。

コミュニケーションから生まれた相互理解は多様性へつながる

不安定な状況のなか、一人の老女がアルジュンに不安感を覚えて訴えるシーンがあります。

この女性の気持ちは正直わかります…不安定な状況下にいる時に自分自身の知識の中にない存在はやはり怖いと思います。褒めれた行動ではないけれど、とてもリアリティのある反応だと思いました。

彼女の不安はアンジュンが巻いているターバンが引き金となりました。

シーク教のアンジュン、不安そうな老女に対して「ターバンは私の誇りです」と説明したあとに「ですがお客様の不安を取り除けるのであれば外しますよ」と語りかけそれを聞いた老女は落ち着きを取り戻します。

相手の不安を解消したいというアンジュンの優しさと良心、そして老女自身も会話によってアンジュンを理解し、そこには宗教や人種を超えた人間同士の絆がありました。

実際自分のアイデンティティでもあるもの(アンジュンの場合はターバン)をネガティブに言われた時に、怒りや悲しみで攻撃的にならず相手の目線にたって寄り添う事は難しいよな…とも思うのですが、そういう難しい事を意識的に考え行動することで相互理解というのは成立するのだと思います。

普段コミュニケーションというものに否定的&拒絶的な人間が言うのも矛盾していますが、こういう差異から生まれる恐怖や不安を解決できるのは結局コミュニケーションと教育なのかなあ…でもそれで解決できるなら戦争って存在しないよな、と色々考えさせられます。

相互理解や多様性というのはイギリスに移住して考える機会が多いのですが、色々折り合いがつかず未だに消化できない課題です。

 

ところで宗教や人種による軋轢は日本では他人事のように思われがちですが、職場や学校などでおこる同調圧力(と、それに馴染めない浮いた人々)というのも原因の一部も、他人への寛容性の低さから起こる事だと思います。

本当の信仰って一体何だろう?故郷の言葉と少年たちの背景

この映画は少年役の役者さんたちがめちゃくちゃ上手かったです。

いかにも悪者!という井出立ちではなくどこにでもいそうな、自然な演技だったからこそ怖いシーンが際立っていました。そんな普通の少年たちが武装集団と接触してしまう社会自体も恐ろしい…。

特に印象的だったシーンは少年兵の一人が人質のアメリカ人達とワシリーを次々と手にかけ、最後にザーラを手にかけようとした時。

今までのずっと従ってきた電話からの声は指示を繰り返すのに、彼が信じる宗教の言葉(コーランの一節かな?)を口ずさむ女性を手にかけることが出来なかった、これこそが信仰というものではないかと思わせる場面でした。

取り返しのつかないことをした現実や貧困に苦しむ少年たちの家族、そして彼が信頼をおいていた電話の向こう側の大人たちがいない精神世界で、彼が彼女を通して本当の意味で信仰に触れた瞬間に見えました。

このシーンは信仰心を利用された少年たちの背景と、何かが違えばきっと良心を持った普通の少年としての人生もあったのではないか、という深い悲しみを感じました。

宿泊客やスタッフを襲撃していく冷酷な目、五つ星ホテルの豪華さに「すげえ…」と感嘆を漏らし、時々みせるどこにでもいそうな少年たちのような表情やふざけあい、父親に電話して泣く姿、葛藤…

最後朦朧とした意識の少年兵、彼らの信念のもと特殊部隊に最後まで抵抗した少年兵の姿に同情は出来ないけれど、彼らを手にかけても問題の根本的解決にはならない虚しさがありました。

神の名のもとに罪なき人々を手にかけた少年たちですが、見方をかえれば彼らは家族のために闘っていてその背景には貧困や教育の欠落による知識不足、そしてそれを利用する大人たちの思惑が多層構造になっています。一体宗教とは、信仰とは何なのだろうと考えさせられます。

監督が警鐘を鳴らす報道の在り方とSNSのこれから

TVで報道されている内容から首謀者が宿泊客やスタッフがどこに隠れているかを把握する場面は色々考えさせられました。

こういう世界を震撼させる出来事の情報は世界中のメディアが欲しがります。視聴者の需要があるのと、一番最初に報道すればそれだけ裏で動くお金にも影響します。でもそのために人命が危険に晒されていいのか、悲劇的な出来事をどこかでエンターテインメントにしているんではないか、という監督の警鐘を感じました。

 

 

しかしアーミー・ハマーが特に目立った活躍もなく退場になるとは思わなかった…ネームバリュー的に「この人は生き残るね」と思ってた人が退場するのがすごくリアルでした。

そういう観客側の油断を見事に裏切るのもすごく新鮮な映画でした。