【小説感想】わたしを離さないで

この記事には映画・小説「わたしを離さないで」映画「明日、君がいない」のネタバレが含まれます。

 

ツタヤで適当に借りた映画「わたしを離さないで」

英国留学を終えて私が日本に住んでいた頃、今のようにネットフリックスなどなかったのでツタヤに足繁く通い、DVD5本を1000円ポッキリで借りてそれを一週間かけて鑑賞することが習慣になっていました。

どうしても観たい映画を借りることもあれば、5本にするため適当に借りる映画もありました。
「わたしを離さないで」は5本揃えるために手にとった映画で、監督の名前も原作者の名前もあらすじもチェックしませんでした。

おすすめに並んでいたのか、ジャケットのデザイン、邦題に惹かれたのか今となってはわかりませんがこの映画は偶然ながら本当に鑑賞できて良かったと思います。

しかしこのとき一緒にかりた映画「明日君がいない」が別のベクトルに衝撃的すぎて「わたしを離さないで」は一度観たあとツタヤに返却し、映画のバックグラウンドを調べるまでに至りませんでした。

英国に移住してからしばらくして原作者カズオ・イシグロさんがノーベル文学賞をとったニュースを観ました。

その時初めてこの作品は、日系英国人の方が書いたと知りました。同僚が日本語訳の原作小説を持っており早速借りて読み始めました。表紙はセピア調に描かれたカセットテープでした。

このテープはトミーと一緒にノーフォークで見つけたものだろうと思いますが、もしかしたらルースがキャシーに渡したものかも…映画を観てからほぼ10年経っていたせいもあって、とても懐かしい気持ちになりました。

イギリスがもつ哀愁と物悲しさが絡み合って五感に伝わってくる小説版

ヘールシャムを始め作中の風景や登場人物の姿形などは、映画で観ているのでそれに影響されるだろうと思っていましたが、本を読み進めるにつれ繊細な描写と、そして自分がいま現在住んでいるイギリスの風景や日本での高校生活などが溶け合って、映画とはまた違う印象を受ける作品でした。

文章から想像力が掻き立てられ、雨が降る前の気配や誰もいない教室の匂い、木々が揺れる音や生徒たちの足音に体温が伝わってくるようで、その世界への没入感がとても心地よかったです。

ノーフォークへの旅は頭の中にはエセックスとデボンが混じり合った風景、キャシーが運転しているときはロンドンからバーミンガムへドライブしたときにみた風景、コテージの先輩たちと入った小さなカフェはブライトンで立ち寄ったカフェ、カセットテープを探しているときはチャリティショップで掘り出し物がないか探しているとき…など自分が経験したことや観た風景も大きく影響しました。
映画では気にしていなかった「地名」は小説では物語を立体にする大きな威力を持っていたと思います。

また「ロンドン」が全く登場しないのも珍しいなと思いました。
ドーバーなど馴染み深い都市名はでてくるけど、ロンドンは一回もでてこず…これが余計にカントリーサイドの「人知れぬ場所で起きている出来事」のようなリアル感を小説全体から感じる理由だったのかもしれません。

「提供」という言葉がずっと覆っていた、施設出身の人々が「強制的な臓器提供」をさせられている事実が現実感を帯びてきたと同時に、映画では感じなかった「もしかしたら私が知らないだけで、こういう施設はイギリスのどこかにもう実在しているのかもしれない」という変な不安感が湧いてきました。

「赤ちゃん工場」など聞くに堪えないニュースはたくさんありますが、そういう命の概念が崩れるようなニュースと臓器提供のために生まれてくる(作られる)クローンたちのことを考えて、現実とフィクションが交差する感覚が何度もありました。

読む進めるなかで「海外に逃げたら良いのでは、パスポートが作れないなど理由があったのか」「今みたいにSNSが発達した時代ならクローン人間たちの状況は変わったのか」「ヘールシャムの先生たちは生徒たちに環境を与えたけど、それを知らなかったほうがむしろ幸せだったのではないか」…など様々な疑問が浮かびました。

ストーリーの終盤になるにつれ、理不尽さと様々な立場の人々が問題視しつつも他者の命を救うためクローンの犠牲を見て見ぬふりしている残酷さは際立っていきます。

もはや「逃げる、逃げない」という問題ではなく、クローンを犠牲にしている事がこの世界の常識として歯車の一部になっているような、そこが崩れたら他に影響がでて取り返しがつかなくなるような、言いしれぬ不安定な秩序が浮き彫りになっていく描写は、残虐なシーンを用いた映画よりもゾッとしました。

また施設の中で過ごしそのまま臓器提供をするのではなく、外の世界、自由に生きれる人々を知りながら抵抗する方法が嘘か本当かわからない噂話を信じるしかないというのはあまりに残酷だと思います。

エミリ先生がへーシャムの生徒がどれだけ恵まれているか説いても「提供を前提としたクローン人間を作り出すことをやめよう」ではなく「提供を前提としていてもクローン人間にも人道的なサポートを」という運動だったことがなんとも物悲しく感じます。

でももし「提供」がなかったらクローン人間は存在しないので、じゃあキャシーたちの存在する意味は一体何なんだろう?生きているだけで良い、という理論は目的をもって作られたクローン人間に当てはまるのだろうか?ルースの夢は大多数の人にとって実現が難しい宇宙飛行士や歌手などではなく、普通のオフィスで事務員として働くという事、でもそれが実現出来ない立ち位置にいるクローン人間がもし、提供という目的を失ったらそれはある意味で彼らの存在を否定することにつながるのではないか…

この小説および映画を知っている人と話すと、答えがでない事柄を延々と話し合い結局疲れて「この話はもうやめよう」となるのですが、「わたしを離さないで」の世界もきっと同じ議論があがって「もうやめよう、答えがでないから」が何千回も積み重なって誰も触れないタブーへとなったのかも知れません。

世の中には長期間どうすることも出来ないままの問題がたくさんあります。

世界中の人がそのことについて時に考える機会があっても、全員がその問題を考えて行動しているかといえばそうでもなく、一時期の感情の沈みに一種の満足(心が痛むことに対しての安心感)を感じてそのあとは、自分の心の平穏を守るためにその問題を安心感で包んで忘れるのを繰り返している人もいるかもしれません。

イギリスでは貧困にあげぐ子どもたち、若くしてホームレス生活を余儀なくされた若者たち、依存症に苦しむ人々…など様々な問題の渦中にいる人々への募金を募るCMがテレビでよく流れています。
やり方は簡単で特定の単語を指定された番号にテキストで送るだけ、募金額も3~10ポンドとお手頃です。でもそのCMをみて行動を起こす人もいれば、陰惨な状況におかれた人々をCMで何度もみるたびにマヒしてしまい特に何も感じなくなった人もいると思います。

クローン人間のキャシーたちが「普通の」人間と変わらない分、彼らを取り巻く悪意のない無関心さが非常に不気味でした。

ヘールシャムへの望郷の念と美術高校

私が卒業した美術専門高等学校は、一般の高校生とカリキュラムが全くちがいデッサンや色彩、選択によってファインアート、デザイン、プロダクトなどを学ぶ学校でした。

埋立地にたつ巨大なレンガパネルの校舎と体育館、南館と呼ばれる制作専用の新校舎、運動に興味がない生徒が多いのに無駄にでかい運動場…海が近かったので潮の匂いと高速道路からの排気ガスが混じり合い独特に匂いがありました。

鉛筆をナイフで削って、制服にはアクリル・油など様々な絵の具がこびりつき、カルトン(画板)やアルタートケースを満員電車に持ち込み、一日の2時間以上は絶対に制作と向き合う時間で、必死に制作しても合評で教師にボロカス言われるのは日常茶飯事、自信をなくし辞めていく子も多い学校でした。

「制作することが当たり前」の世界に違和感を感じるのが、普通科高校に進学した中学の同級生と会った時。漫画にでてきそうな高校生活を送っていたり、聞いたこともない数式を習っていたり、なんというか毎日毎日制作と向き合ってる自分の高校生活は一種隔離された空間でのことのような気持ちになる事が何度もありました。

芸術大学に進学し高校時代が過去になった時、同じ芸術を学ぶ場なのに大学は全く違う色をもった場所でした。高校をうまく言い表す言葉はないのですが、今でもかつての同級生と会った時に思い出話があがるとき言葉ではなくあの高校生活がまとう独特の雰囲気を感じることがあります。

キャシーがヘールシャムの事を語る時、ヘールシャムの思い出をきかせてとせがむ提供者の姿は何となく自分の高校時代を思う時と感覚が似ている気がします。

私の場合は高校時代ですが、この言葉には出来ないけど自分のなかでコアになっている時間は誰でもあると思うので、それに共感を促す描写は見事としか言いようがありません。

同じ「命」を違う視点で描いた映画「明日、君がいない」

記事冒頭で触れた別の映画「明日、君がいない」

この映画は高校を舞台に様々な問題を抱えた6人の学生を映し出しています。撮影手法としてはガス・ヴァン・サントの「エレファント」と同じで、時間差で違う生徒の目線でストーリーは進んでいきます。
学生時代特有の閉塞感、マイノリティ、人に言えない秘密、そして「自殺」がテーマの映画です。

「わたしを離さないで」の次に見る映画としては中々辛いものがありました。両作品共全体的にはしっとりした色彩や音楽、雰囲気で「命」について考えさせられるのですが、その画面上の美しさの奥に「死」がビビットなコントラストをもって潜んでいるのが感じられます。

「わたしを離さないで」では残酷な現実を霧が覆っているような感覚がありましたが「明日君がいない」の閉じられたドアの奥から流れ出てくる赤黒い血によって、その霧が一気に晴れて隠れていたものが見えるような気がしました。

飲み合わせが悪いと最悪の二日酔いになるのと一緒で、続けて観たばかりにしばらく憂鬱な気持ちを引きずることになりましたが…

また何年後かに読みたい小説、観たい映画

映画をみて10年の時を経て読んだ「わたしを離さないで」、ストーリーは知っているしと思って読み始めたのですが、翻訳家の方の文体が好みなのもあって読んでいる間は現実と切り離されたように集中して楽しむことが出来ました。映画も10年ぶりにまた観てみたら違う発見があったり、違う視点で観れるかもしれません。

この作品は何年かに一度読み返したくなると思います。年齢を重ねるごとに、描かれた世界に対する気持ちや共感する思い出にも変化がでるかも、と思うと将来また手に取るのが楽しみです。